上田西部と塩田平の雨乞い この項は、17年前、娘が大学のときにレポ −トとして纏めたものですが、数年前にみつ け、塩田平の気候風土の参考としてこのHP に掲載しようと思っていたのですがなかなか 出来ないでいました。ようやく載せることが できました。無くなっていた写真は新しいも のを入れました。2007.1.20

長野県の東部に位置する、上田、塩田平は内陸性気候で、年間降雨量が1,000ミリ 前後と雨が少ないことで知られる。ことに市西部から塩田平では、いたる所でため池が見られ、その率は、 同じく雨の少ない四国南部に匹敵するほどである。
そんな中で、人々は水に苦しみ、神に祈り雨を願った。その様々な雨乞いの様子に、私は大変興味をも ち、その人々の思いにせまってみたいと思う。

1、山岳信仰と寺社

「山」から水がわき、川が生まれることにより、全国でも、「山」は水の信仰の対象となることが多く見 られるが、上田、塩田平も例外ではなく、水源地である独鈷山、夫神岳などは人々にあがめられ、山頂 には神がまつられ、里近くには神社や寺がもうけられている。ことに独鈷山は、弘法大師が寺をつくろう とやってきたが断念し、残念がってその独鈷をうめたということからその名がついたという伝承をもつ のをはじめとして、水に関する伝説を多くもっている。
独鈷山付近の寺社(水に関するもの)をあげてみる。
塩野神社 塩野川の水源、今は独鈷山の北麓にあるが、元は更に山奥深い鷲岩(塩野側の水源地)にあったものを 現地にうつしたとされている。
中禅寺独鈷山の支峰、竜王山(雷山)を山号とし、産川の上流野倉区には 塩田水上神社がまつられている。
前山寺真言宗の談林。旱魃のときは雨乞祈願を独鈷山上で行い、雨乞寺と しても有名。そのための道具等が今も残る。
独鈷山
塩野神社
中禅寺
独鈷山
塩野神社
中禅寺
また、夫神岳の方には、「岳の宮」という伝説があり、頂上には九頭竜社、ふもとには夫神神社などが みられる。(伝説については後述)
しかし、ここであげたたものたちは付近の人々にとって、水の象徴であり、聖なる地であり、一般の 人々の生活に密着した「雨乞い」とは少々趣を異とするようにみえる。次では庶民的な(?)雨乞いに ついてせまってみたいと思う。

2、庶民的な雨乞い

私は、上田小県誌を参考に、上田西部から塩田地区にかけての雨乞地図を作ってみることにした。 驚いたことに、この作業中、私の父が雨乞体験者と知り、その協力を得て、吉田地区、野倉区、前山寺 付近の雨乞いの様子を実際に聞くことができた。
また雨乞いのやり方を六種にわけてみた。
@鎮守や氏神の神社にこもる
A千駄焚き、千段焚きなど山上で火をたくもの
B鉦や太鼓をうちならし、大声で雨を乞うもの
C池に汚物をすてるもの
D水神を強要するもの
Eもらい水をするもの

前山寺(三重の塔でも有名)

方法 @ 硯り石の水を汲んできいて水鉢に竜(というより荒縄)をうかせて水天供の呪法をすると、 竜が頭をもたげて雨がふる。独鈷山上で行う。
規模雨乞寺として有名だったため、付近の前山地区だけでなく、塩田や 上田西部からも多く集まったらしい。
○水鉢は中国から輸入したもので、それ以前は鉢は使用していなかったようだ。
雨乞いでならした僧もおり、寺の記録に残されていた。
現在、雨乞いの儀式を行うことはなくなったが、今年は雨が少ないな、という年は、鉢に水をはる そうである。(その場合は、水道水を使用する)以前、子供がおもしろがって鉢に竜をうかべて 遊んだ(竜はお経をあげなくても水圧でうかぶそうだ。)ところ、大雨にあって、ひどかったと いう話もあるという。
前山寺
前山寺三重塔
水鉢の図
前山寺
前山寺三重塔
水鉢の図

野倉区・・・ 山と山にはさまれた小さな村。標高が高い

方法 DOrE 湯小路の角にある石の囲いに入った赤ぬりの地蔵を、旱魃時に産川の滝元「笹淵」にもちだし、 大声で雨乞いをするが、それでも降らない時は淵の中にケ落とす。
規模笹渕自体、行くのが大変な所のため、雨乞いに出かけるのは世帯主 中心に、大人の男性のみ参加。
〇上田小県誌では「蹴落す」の後がなく、いったいその後どうしたのかと聞いた所、蹴落とすやいなや 雨が降り出し、すぐ拾いにいったとのことだった。その他野倉では、雷山で千段焚きも行っていたよう で、いかに水が不足していたかがうかがえる。
戦後、雨乞いは行われることもなくなり赤地蔵は石の囲いの中に静かにすわっている。
野倉区
赤地蔵
野倉区
赤地蔵

吉田池、福田池・・・ 農作業用水池。 平地

方法 B 吉田地区の水田の中にある大木のもとにある地蔵を池のふちにもちだし、池のまわりを人々が 、たいまつにひをつけてもち、「アメフ〜ラセタンマイナ〜」と唱えながらぐるぐるまわり、千駄焚き をして終わる。
規模私の父が小学生時代参加したといい、子供から大人までの広い年齢 層で行ったようだ。
〇一番庶民のものとなっている雨乞い方法と感じた。地蔵をもち出す役の人は早死にするか、長生き するという伝えもあったようだ。また、昔その地蔵は野倉同様木製であったが、霊験あらたかだった ためもち逃げされ、その後新しく造られたものは、そう簡単にもっていかれないようにと石製にした そうである。
吉田池
地蔵ほこら
地蔵
吉田池
地蔵ほこら
地蔵

岳の幟・・・ 上田市別所温泉の奇祭

方法 @(?) のぼりを立てて夫神岳にのぼり、山頂の九頭竜社に雨乞いを祈願して下山する。
規模 現在は、本来祇園祭の出し物である、ささら踊りと三頭獅子が祭りの中で行われるため、 別所全体の大がかりな行事となっている。
〇別所では永正年間にひどい旱魃になり、雨を願って夫神岳の九頭竜神に三丈余の長幟を献納したことか らはじまったとされ、以後毎年行われてきた。のぼりの布の質は自由で、祭の後、その布で着物を作ると 一年間病気にかからないという。おもしろいことに、夫神岳をはさんで反対側の青木村にも似たような 伝説があり、「しないのぼり」という同じような祭が行われていたが現在はなくなってしまったという。
夫神岳から塩田平、上田市を望む
岳の幟
夫神岳から塩田平、
上田を望む
岳の幟

3.おわりに

調査をはじめる前まで、私は雨乞いというものは少なくとも戦後は行われれることもない前世紀的なも のだと思い込んでいた。しかし、吉田では昭和25年ごろまで、塩田では昭和46年ごろまで行われて いたという事実を知って、本当にびっくりしてしまった。人々は自然をおそれ、あがめるという真心を 、こんなに最近までもちつづけていたとは。
開発が進み、水に苦しまされなくなり。人々は雨乞いを忘れた。"自然”はいつしか霊的存在から”モノ” に変化し、人間はその力の恐ろしさを忘れてしまった。今、残っている雨乞い=岳の幟も、本来のその心 を失い、あくまで観光名物としてその形のみを残しているにすぎない。
多くの池や地蔵は私たちを見つづけている。その瞳は私たちの心の変化をどうとらえているのだろうか。 いつか自然は人間の思いどおりに動いてくれない時もくるだろう。そんな日がおとずれる時、人々は また祈るのだろうか。
「いや〜も〜今は雨乞いなんてのはよ〜、やらねっけどよ、もしほんとに、ダムや水道でじゃど〜 しょ〜もなんね〜時がくりゃへぇ、みんな必死でやるんでねっか〜」
そう言って笑った話の提供者の方の言葉が頭からはなれない。そんな日もくるのだろうか。
お地蔵様は、笑ってみている。

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